「何事にも時がある」 07.03.04
使徒言行録 25:1〜12
日本語の「時」という言葉は、「紐をトク(ほどく)」、「氷が
トケル」という言葉と関係があるそうです。「時」は、事柄や
存在をとかし、薄め、失わせ、消してしまうという面を持って
います。
聖書の「時」は、薄れていくものでも、ただ繰り返すものでも
ありません。
「時」には、スタートがありゴールがあります。
消え去る方向ではなく、出来上がる方向にむかいます。
創世記から黙示録に向かって進むものであり、創造から
完成に向かうものです。そして、私たちがそのような「時」の
中に身をおいていると、聖書は語りかけます。それを知って
いる私たちは、諦め、投げやり、絶望に縛られはしません。
希望を持ち、忍耐しつつ、待つことが出来ます。
聖書は、この場面のパウロの姿を通して、時が完成に
向かって進むことをあらためて教えてくれます。
パウロは、エルサレムでローマ兵に逮捕されてから、もう2年
以上が経っていました。何度も裁判を受けましたが、何の進展も
ないまま、権力者に拘束され続けています。たいへん辛い日々で
あったに違いありません。肉体的な辛さだけでなく、信仰の
揺さぶられるような思いとの戦いの辛さもあったに違いありません。
ずっと神さまに従いながら、誠実に歩んできたのです。
「勇気を出せ」と主からの励ましも受けていました。
しかし、事柄が進展しないのです。
それどころか、彼をエルサレムに連れ戻そうとする動きも出て
きました。神さまよりもこの世の権力者の方が、状況を支配して
いるかのように思えます。神さまへの信頼がぐらついても仕方が
ないように思います。私たちであれば、諦めと嘆きに沈み込んで
しまいそうです。
しかし、事柄は前進するのです。
権力者やユダヤ人の思惑ではなく、神さまの備えた道が
開かれ、進んでいきました。辛さの中でも、あせらず、諦めず、
完成を見つめ続けるパウロのように、待っていて良いと
いうことに、気づかされます。
私たちも、救いの完成に向かう「時」の中に身をおく者と
されているのですから。